昭和44年05月15日 朝の御理解
御理解 第34節
「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたくて受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。」
ここへ参っても神の言う通りにする者は少ない。どうして神様の言うて下さる通りに出来ないのか。どうして自分の良いように自分の勝手な事をするのか。どうして帰りには皆んな頂いたものを落としてしまうような結果になるのか。ですからそこんところをひとつ本気で思うてみなければ、いけんと思うのですよね。折角お参りさせて頂いてね、神の言う通りにするものは。折角お参りさせて頂いて、教えを頂こうと思うて参って来ておりながら、その教えは頂いても教えの通りにしない。
何故出来んのか。何故自分の好いようにしてしまうのか。どうして頂いたものを途中で落としてしまうのかと。ここのところがなかなか難しいですねぇ。確かにこの三十四節に教えておられるもうこの通りだと。神の一言は確かに千両の金にも代られぬ、有り難く受けて帰ればおかげは、船にも車にも積めぬ程の神徳がこもっておる。それにはそのう心の内を改める事が第一なりと仰る。心の内を改めるという事はどういう事だろうかと。神様に一心とは迷いのない事ぞと。
歌の文句に「何にもなかった昔と思い、別れましょうと言う未練」都々逸の文句です。「なんにもなっかた昔と思い、別れましょうと言う未練」という程に実は難しいんですね。どうしてどうしてどうしてと私は一番始のところを。どうして神様の言う通りに出来ないのであろう。どうして帰って帰ったら教えを頂きながら、自分の好いようにしていまうのだろう。どうして頂いた事を道に落としてしまうのだろう。結局何にもなかった昔と。白紙に換えれないところにですね。
あのうこれ難しいものになって来るのであろうと私は思うのです。わが教えの昔に帰れと仰る。いろんな問題が起きて参りますととにかく一辺白紙に返そうと、何にもなかった事にして、白紙に返すという事になったら問題が必ず解決するんですよ。ところがその観念の上にも、今まで自分が思うておる事を本当だと。本当でもない事を本当だと思うておったり、少しばかりの勉強が邪魔になったり、いわゆる我情我欲が邪魔をするから、どうしてどうしてどうしてとこう私が。
そのうどうして道に落としてしまうのか、どうして神様の言う通りに出来んのか。どうして帰ったら自分の好い様にしてしまうのかと。過去の自分というものがそこにあるからなんです。けれどもそのう白紙にするという事はですね。そこに今迄のどういう事があったにしてもです、言い分があろうけれどもそれを白紙にする。それは是からの在り方と是からのお互いが幸せになっていく為に円満解決をする為に、今迄の事を白紙にしょうと。だからいかに白紙にする事が先ず先決だと言う事が分るですですけれども。
その白紙にするという事は今の歌の文句にも申しもます程に難しい。何にもなかった昔と思うて別れましょうと。その別れましょうと言うておる事がその事が既に未練である。会わなかった昔知らなかった昔。神の一言は千両の金にも換えられんとこう仰る。確かにそのような大した事をです。大変な事をですそれを薄ぅいものにしてしまう。心の内を改める事が第一なり。自分という者が段々こう改められて参ります。自分という者が改まって来るとです。事によって私は白紙になっていく事が出来ると思う。
白紙になるという事は、ゆえに三代金光様が仰っておられますように「初めの間は辛うて辛うて」というところがやっぱりある。なんにもなかった昔。「親様が座っておれば楽じゃと仰せられたから」と。神様が「信心する者はこうあらなければならんぞ。こういう心掛けにならなければいけんぞ」と仰って下さったから、という事になるんのじゃないでしょうか。だからけれどもそうする事は、実はもう辛うて辛うてよう泣きましたとこう言うておらるように。やはりその事がです。
神様はこう教えて下さるけれどもじゃなくて、神様がこう教えて下さるから。辛うて辛うてならなかったけれども、辛抱しておったと言う様なものが必要じゃないでしょうか。そこんところをです。例えば泣く泣くでも辛抱しておりましたがと仰る。そこんところを辛抱をしていくというところに、私は信心が有ると思うです。教えを行じて行くという事はやはりそんなに難しい。いわゆる自分の思いとか観念というものを捨てきらなければ行じられない。けれども観念がやはり災いをする。
そして自分の好いようにするという事ね。だからそれを捨てきらなければ、神様の言うて下さる通りには出来ん。いわゆる人間心では駄目だと。人間心では自分の思う通りにしたらよいように有るけれども、そこんところがやはり出来ていない。泣く泣く辛抱しいしいにですね、泣く泣くでも辛抱させて頂いておりましたら、今度は思う事も無くなり欲しいものも無くなり、という信心体験が素晴らしい信心体験が生まれて来ておられます。そこんところを泣く泣くでも本気で、神様が言うて下さってあるからという事です。
守らして頂いておるとです。そこから成程神様のおかげじゃなぁという体験が生まれてくる。そこの体験が尊いのです。そこの体験をね受けるからこれは本気で白紙にならなければならないなと言う事が分かる。これでは道に落とす事も出来んぞ。自分の好いような事も出来んぞと、神様の言うて下さる通りにさして頂く事が一番有り難いという事になってきます。そのところの体験。例えばお願いをしてそしてそのお願いが成就する。これがいつまでも続いておったんではですおかげになりません。そう言うおかげでは。
そこでお取り次ぎを頂いて願うと言うても、お取り次ぎを頂いて願うと言う事はです。それは本気で神様の教えを行じさせて下さいと、言う願いに変えられて来なければいけん。その行ずると言う事は過去の自分というものを捨てなければならん。人間の浅い知恵で考え出された事はやらは、そこに置いておかなければ出来ん。何故かと言うと神様はもう奇想天外とでも申しましょうか。全然人間の及びもつかないところにお考えを以て、お指図下さるし教えて下さるのですから。
自分という者があったんではとてもそれを行じきる事は出来ません。そういう私は稽古をさせて頂いて、初めて神の一言は千両の金にも替えられないという事も。土産は船にも車にも積めぬ程の神徳がある。そこんところが分からして頂くところから、おかげがもう限りなく、それこそ船にも車にも積めぬ程のおかげが約束される。土産は船にも車にも積めぬ程の神徳があるとこう仰せられるが。ここはおかげと仰っておらんと。神徳があるという風に頂いおりましたけれども。実際はそうじゃあない。
やはりおかげは船にも車にも積めぬ程のおかげがあるのです。それにはやはりこの神徳を受けなければならん。神徳を受ける為には辛かろうけれども過去というものを一辺白紙にして、自分の思いと自分の考えと言った様なものを一辺捨てきって、神様のそう言うて下さるからと、言わば神様の仰せには背かれんという生き方。そういうおかげを頂かしてもらう。ですからお取次を頂いておかげを頂くという事ではなくて、お取次を頂いて神徳を受けるという事。
その神徳に付いておるもうおかげは、船にも車にも積めぬ程の神徳がある。お取次を頂いて、おかげを頂くというのはそれだけの事。そこでなら御神徳を頂く為には、神の言う通りにする以外はない。自分の好いようにするのではなくて、神様のお指図下さるままに動くより他にはないという事になって来る。そこんところが私はね白紙になら白紙にならなければ出来ないという事であります。白紙になるという事はそれは、まぁそれは本当に辛い事である。なんにもなかった昔と思うてという事は大変辛い事である。
それと別れを告げる過去の自分と分かれるを告げるという事は、実に難しい事ですけれども、そこんところを改めていくのが第一だとこう仰る。こん辺のところを具体的に申しますと、最近私が申しております。おう黙って受けていくという事。そして黙って与えて行くという事。そういう稽古です。まぁ何とあの人は無茶な事を言う人であろうか。どうしてこの人は分からん事を言う人であろうかと言う時に、そりゃ無茶ですよとも言わん。それは分からん事をあんた言うのとも言わん。
それを黙って受けていくのである。そしてそういう無茶やら、そういう分からん事を言うたんでは、あぁた自身が助かりませよと言う祈りを送ってあげる。けれどもその一言だけでも実を言うたら難しい。一言言わにゃおられん。けれどもそれを言わんで済み同時にそれを黙って受けて黙って与えられる、信心が出来ますその向こうにですね。自分も助かっておれば相手も助かっておる体験が生まれて来る。
私は今朝から地球上に住む人間では氏子が、本当にこの天地の親神様の御恩徳を全部が分かって、この天地の親神様の御恩恵を受けねば人間、これもそのう人間だけではないですけれども、人間は立ち行かないという事を、分かるという事だけでも有り難い事であるから。これを世界中のいわば人間に教えてやれる方法はなかろうかと。そこから不平不足のない生活が出来るようになったら。
どんなにこの地球上が一変して来るだろうかと、言う様な事を思わせて頂いたら。何でしょうかあのおいさみを八足の一番下から上まで、パァパァパァッという、しかも神様の方へずっとこう響いて行く様なおいさみを頂きましたがね。いかにその事が神様の願いであるかという事が分かる。ここではそういう例えば働きと言うか、そういうものがその気になれば皆んなが頂ける。
昨日も旗崎教会の御大祭でしたが。若先生おかげを頂き嘉朗さんが昨日一緒におかげを頂いておりましたが。帰って来てからまぁ話した事なんですけれども。この神様はねもう御自身がねもう御自身がまず助かろうとしてござる。ですから私共がその気になったらね、はっきり神様の働きを見して下さる。神様は氏子信心しておかげを受けてくれよとこう言うておられるけれども。氏子に信心さしてから何を得て喜んでおられるかというと、御自身が助かられる訳です。神様御自身が助かられる。
ですから神様御自身が助かられる事の為、だから神様の願いが成就する事の為に、私共が信心したらそこにはっきりと、御自身が助かりたい思いですから、ここにいわば神様の働きというものをはっきり見せて下さるんだと。ですからいかに願いの焦点というものが、変えられなければならないかという事が分かる。それを又そのうよくよく頂いておると、結局はやはり氏子信心しておかげを受けてくれよという事になるのですけれども。なら氏子信心してと仰る事はどういう事かと言うとね。
神様が先ず助かられる事なんです。氏子が信心しなければね神様が助かりなさらん。その信心というても、今日私が申しますような信心なんです。ですからそこに私共が願いを置きますとです。はっきり神様の働きを見して下さる。いわゆるおかげの体験というか。神の働きを体認する事が出来る。自分の体で自分の心でそれを神様の働きをキャッチする事が出来る。それがキャッチ出来れるからです。言わば恐れ入った生活が出来るのですよ。恐れ入りましたと。
そこから自分の好いようには出来ないのであり、神様の一言は、千両の金にも替えられないものとして、大事にする事が出来るんです。だからいかにですね例えば、あのう神様はね。御自身が助かりたいという一念をですね、氏子信心しておかげを受けてくれよという風に、表現しておられるのです。だからお取り次ぎを頂いて、おかげを頂く頂くという事じゃないです。神様の間違いなさ。それも旗崎教会の場合は、いつもお湿りがあるのですよ大祭の時に。
けれどもそれはね旗崎の先生の信心が厳しく、先生がある意味合で素晴らしいから、神様はお湿りを以て示して下さるんだと。それは恐らくはどうぞ天気回生を願われたに違いないけれども、本当の神様の間違いなさというものを分からせて、その上に恐らくはもう旗崎の教会の御大祭時にゃお湿りがあるこたぁないと言う、おかげの前提だと私はあちらの先生の信心からそう思わなければおられない。そう言う所から私共が推してです。この神様は先ず御自身が助かりたいという。一念で一杯のお方だという事なんだ。
それを「氏子信心しておかげを受けてくれよ」とこう仰る。ですから願う氏子におかげを受けてとこう仰るけれども。その後には理解申して聞かせと、その理解申して聞かせという事がです、どういう事を理解申して聞かして下さるかと言うと、天地の御恩徳でありね人間の本当の幸せというのは、本当のおかげというのは、神が助かる助からなければ、その神の助かりと氏子の助かりとが、繋がらなければ本当の幸せではないと言う様な事を、沢山な教えによって教えて下さる。
だからそこから分からしてもらう事はです。これは自分の願いを神様のお取次ぎを願って、自分の言うなら我情我欲を満たして頂くというおかげ。これではですね本当の神様を体認する事は出来ん。はっきり現わす事は出来ん。けれども神様が助かって下さる事の為の信心。あなたの願いが成就する。先日十二日の美登里会の時に、関さんが発表しておられます。明日は十三日会。それを前々から十三日会という十三日という日は、神様の願いが成就する日なのだ。
だから神様の願いが成就する事の為に、自分で心掛けておられる事をです。願われるともうこれこそもう百発百中おかげを受ける。狙いが狂うた事がないという。そこにはぁこの神様は間違いのない神様だというものが生まれて来るのですよ。それはもう度々不思議で不思議でたまらんような働きを以てその事が成就する。その思いの一念がですね、そういう働きをそこに生みなしていく。神様がままになろうと思うてござる事ですから。神様が助かりたいと思うてござるのですから。
氏子がその事を願うものですからもう直結する訳です。そこになら不思議で不思議でたまらんと。関さんの身に付くもんじゃない、そのおかげというものは。全部神様の為に使われるものなんです。神様が助かられる事の為に。けれどもこの様に間違いのない働きをそこに見せて頂く事が出来るからです。全てがその調子。そういう行き方在り方でいけばおかげ間違いなしという確信が生まれて来る。そういう例えば神様の間違いなさというものをですね。身に付けて行くから例えば過去の未練と言うか。
これはいよいよ今までの行き方ではなくて、いわゆる信心の在り方信心の行き方、教えを元にした所の信心生活にならなければ、いわば馬鹿らしいと言う程しに分かって来る。そこで初めてね神様の教えて下さる事をですね。いよいよ血に肉にしていく言わば教えの生活と、信心生活が出来る様になるという風に思うのです。何故神の言う通りに出来ないのか。何故自分の好い様にするのか。どうしてこれだけの事を頂いており乍ら、その有り難いものは途中で落としてしまう様な、結果になってしまうのであろうかと。
それは過去の自分というものが有るから、白紙になれないところに、そういう結果になるのだ。そんならまず白紙になることを願わにゃきゃならんね。その白紙になるということは実に辛い事。なんにもなかった昔と思うという事は実に辛い事。そこに未練が出てくる。いわゆる昔の思い方。観念がそこに出てくる。けれどもそういうものとです。戦うていくということは、やはり泣く泣く辛抱し、一心にと言う様な辛抱が、ここには必要であるということ。
そこに思う事もなくなり欲しいものもなくなりという事になって、初めてね不平不足のない心でです。神様あなたのあなたの願いが成就する事の為に奉仕する自分。神様の願いが成就する事の為に、自分があると言う様な信心が出来て来る様になる。しかもその事が有り難い事になる。そこに神様の御信用である御神徳が受けられる事になったです、おかげは船にも車にも積めぬ程のおかげという事は、これは無尽蔵のおかげという事だと思う。限りのないおかげだ。
ここんところが今までと全然頂き方が違うですね。おかげがあるとおっしゃってない、神徳があると仰っておられると言った様な表現でしたよね。けれどもそうじゃないやはりおかげがあるんだ。それには船にも車にも積めぬほどのおかげがあるんだ。そういうおかげに繋がる為に、いよいよ心の内を改める事が第一であり、神に一心とは迷いのない事ぞと仰るね迷わんで済むね、私は信心がそこに確立されるとこう思うんです。
大変理屈っぽく説きましたが、結局はどういう事かと言うとです。この神様は御自身は助かりたいという一念を持ってござるという事。それを表現の上にはです。氏子信心しておかげを受けてくれよと言う風に言うておられるね。だから氏子信心してと仰るその信心が、私は只おかげを受けるという事じゃなくて、今日ここで申しましたようなその事が信心である。そういう信心を受けてくれよ。
そこには神様が助かられる訳である。だから願いを懸けるならば、そこに願いを懸けなければならないと言う事になる。そこに願いをかけるという事は。神様の言わば願いに対する、神様の願いに対するひとつの、私共が応援さして頂くようなもんですから。神様が喜んで下さらない筈はない。聞いて下さらない筈はない。そこにはっきり分からして頂くのが、神様の働きの体験です、神の働きの体認ですね。体でそれを認める事が出来る程しのおかげを、はっきりそこに見せて下さる。
神様って間違い御自分の事にならこんなにも間違いがないなという事になって来る。神様がお喜び下さる事に為に一念を燃しゃ、この様に間違いがないなという事が分かって来る。自分の我情我欲の場合は地団駄踏んでお願いしても、おかげにならなかった事でも、神様の願いの事の為ならこの様にはっきりおかげを下さる。それが今までの関さんの体験発表だと思うのですけれどもね。
だからそのように間違いのない神様であるから。自分の願いであっても、神様の願いに叶う願いであらなければならんという事が、分からして頂けるのでございます。「ここへ参っても神の言う通りにする者は少ない。みな帰ってから自分のよいようにするのでおかげはなし。神の言う事は道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。有り難く受けて帰れば、みやげは船にも車にも積めぬほどの神徳がある。
心の内を改める事が第一なり。神に一心とは迷いのないことぞと。これが例えば本当にこの通りなんです。私共はねですからこの様に難しいのです。難しいけれどもです。それを今日当たりのところに言わば焦点観点を変えますとです。信心がねいよいよ有り難い。いわゆる私共が願って止まないおかげに、限りなく繋がっていけれるおかげが受けられる。先ず何と言っても本気でひとつ白紙にならして頂く事を、願わしてもらわなければならないという事でございます。
どうぞ。